うさぎ島はかつては毒ガス島だった。大久野島がうさぎ島になるまで。

瀬戸内海に浮かぶ小さな島・大久野島。野生のうさぎが多数生息し、「うさぎ島」と呼ばれている。国内をはじめ、海外でもうさぎ島は話題となり、有名な観光地になった。しかし、かつてうさぎ島と呼ばれている大久野島は、地図から消された過去を持つ。

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IMG_2416 / tetchang

うさぎ島として取り上げられている大久野島。ここは戦時中毒ガスの製造工場があった。1984年戦後40年たってようやく、日本軍が毒ガスを製造していたことが知られた。

 

昔、うさぎ島は毒ガス島だった

大久野島が毒ガス島になった経緯

毒ガス貯蔵庫跡
毒ガス貯蔵庫跡 / zamojojo

まず大久野島が毒ガスを製造していたことが知られなかった背景は、化学戦の実態が慎重に秘匿とされており、旧軍事関係者しか知らなかったからだ。この大久野島が毒ガス島となった経緯は、第一次世界大戦時に地理的な条件がよかったという理由から、毒ガスを製造することになった。

 

 

大久野島は東京から離れており、離島で秘匿が容易だったことから毒ガスの大量生産拠点となった。秘匿性の高さは先ほどの書いたように、戦後40年たって日本の化学戦実施に関する報道され知れ渡った。

 

 

1925年はジュネーブ議定書に日本は署名していたが、第二次世界大戦前には批准していなかった。要するに条約に署名はしたけど、最終的な同意はしてない。と言うこと。ジュネーヴ議定書が作成・発行された理由は、第一次世界大戦時、ドイツ軍が始めて近代的な化学兵器が使用されたことを受けて、化学兵器の使用の禁止を定めたもの。

 

 

よって、毒ガスを含む化学兵器は戦争での使用が禁止されていた。しかし、開発や保有する頃は合法だった。

 

 

また、大久野島が毒ガスの製造拠点となった理由はいくつかあり、東京から離れていたと言う点や比較的人が住んでいるところに近く、労働力や資材を確保しやすいと言った点がある。

 

 

東京から離れていれば、毒ガスがもれ出ても被害が少なくて済む。その上、中国大陸に近いのも理想的だった。その一方で芸予要塞が廃止されて、大久野島の忠海町は不況状態。よって、軍事施設を誘致した。色々ありながらも、大久野島は毒ガス大量製造拠点となる。

 

 

毒ガスの島が地図から消えていた間

Soldiers drill in their gas masks during World War I
Soldiers drill in their gas masks during World War I / State Library of Queensland, Australia

地理的に毒ガスの大量生産が可能だと言うことで、毒ガス島になった大久野島。毒ガス向上の存在は機密にしておかなければならない。よって、陸軍が発行した地図には大久野島一帯が空白地帯にとして扱われた。要するに地図から消えてしまった。

 

 

大久野島が地図から消えていた間は毒ガスを大量に製造していたことは言うまでもなく、そこで働いていた従事者達は毒ガス工場へは希望入所ではなく、国家総動員法の徴用令状(青紙)に連れてこられた徴用者たち。徴兵令状は赤紙と呼ばれていたことに対して、徴用令状は青紙と呼ばれていた。

 

 

青紙で連れて来られたのは16~17歳という未成年。毒ガス工場の元従事者達は安全性を無視した労働環境に置かれた。辞めたくても辞めることができなかった。非国民と呼ばれることを恐れ、辞職を願い出た人には憲兵がやってきては責め立てて、殴った。

 

 

元従事者たちは戦争中は憲兵から大久野島で見聞きしたことを外部に話すこと禁じられ、戦後は毒ガス工場に従事したことで差別されるのではないかと恐れた。

(参考元)(参考元)

 

 

生産された毒ガスは、イベリットガス(マスタードガス)、ルイサイトガス(有機砒素化合物)、クシャミガス、催涙ガスの4種類。最初は毒ガスの需要が少ないこともあって、サイロームといわれる農薬を作っていた。サイロームは青酸で出来ており、本当によく効く農薬で、みかん農家の人には大変重宝されていたそうだ。

 

 

生産された毒ガスの総量は6,616トンといわれ、終戦後は大久野島に残った毒ガスは合計3,270トンで、それらは、海洋投棄、焼却処分、地中処分と言った方法で処分された。除毒措置も施されたが、今なお島内地下4~5メートルの土壌で高濃度の砒素が検出されていると言う。

 

 

大久野島で働いた従事者にももちろん健康被害があった。1950年に元従事者から喉頭がんが始めて発見され、それから激しいせきや痰、原因不明の頭痛に悩まされる人が相次ぎ、毒ガスの後遺症の特徴である肺炎、慢性気管支炎、呼吸器官系のがんになった。

 

 

国のためと信じて毒ガスを作り続けた元従事者達の多くは、毒ガスによる重い後遺症に悩まされることになった。

 

 

毒ガス島からうさぎ島へ

 

大久野島には元々この島にはうさぎはいなかった。それが1971年に島外の小学校で飼いきれなかったうさぎが8羽放たれた。そしたら、700羽まで増えた。ここは大久野島はうさぎ島と呼ばれるようになった。

 

 

現在はうさぎも人に慣れ、愛くるしいしぐさを見せてくれる。よって、年間約10万人も訪れる一大観光スポット「うさぎの楽園」として呼ばれるようになった。

 

 

うさぎの起源に対しては色々言われていたようで、毒ガスの実験や検知のうさぎが終戦後施設とともに放置され、繁殖したというものがあったそうだが、毒ガス実験用のうさぎはすべて、終戦後処分された。

 

 

また不思議なことに、毒ガスの処分が終わり大久野島の生物調査を行なった広島大学によると、島全体に殺菌・消毒のために厚さ3センチものカルキがまかれ、動植物の生息は難しいという状態で、うさぎが生存できる状況ではなかったそうな。

 

 

昔、毒ガス島と呼ばれた大久野島だが、今ではうさぎの楽園、うさぎ島という愛くるしい島になった。今の現状を保って行きたいと願うばかりである。

 

  

参考元
wikipedia 大久野島
大久野島と毒ガス
毒ガス島研究所 
※製造携わった人等の体験談や貴重な写真資料等があります。
Youtube 【うさぎ島】大久野島の可愛いうさぎ達と、その裏にある戦争の歴史【2014.03.19】 

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