鳥のお面を被ったペスト医者。ノストラダムスの偉業はペスト医者をしていたことかも。

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ペストが黒死病と呼ばれいたころ、鳥のお面を付けた医者がいた。

家族に見放されたペスト患者はこの鳥の仮面を付けた医者に頼るしかなかった。この奇抜な仮面を付けた医者はペスト医者と呼ばれ、見捨てられた患者たちの介護に当たった。

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日本に初めてペストが上陸したのは1896年で横浜に入港した中国人船客が横浜の中国人病院で亡くなった。その後ピーク時は1907年で患者数は646人で、1930年に2人の死亡者をだしたのを最後に、日本国内のペスト発生は確認されていない。日本にはペストを媒介するケオプスネズミノミの生息数が少ないといわれている。

 

しかし、ペストは19世紀までに4度にわたる世界的な流行をし、ヨーロッパの人口減少に拍車をかけた。

 

 

ペストが蔓延したら、医者が逃げた、死んだ

ペストが蔓延した年は言う必要が無いが、当然多くの医師がさっさと逃げたしたか、死んだ。

 

仕方が無いのでペストが蔓延した時代に多くのペスト患者を抱えた街から特別に雇われたもので、報酬も街から支払われており、公務員としての立場が色濃く、ペスト医者は貧富の隔てなく治療を施したらしいが、彼らは経験豊富な医者とは言い難く、商売が他所で出来なくなった藪医者か若い医者で、両者とも生計を立てる必要があったのだ。

 

 

ペスト医者になることはエボラ出血熱の状況を見てわかると思うが、決して喜ばしいとは言えず、辛く危険な仕事で、ペストが大流行した時代に彼らが生き残る可能性はわずかなものである、ただ彼らの仕事がペストを食い止めたかというとそうではない。

 

 

ペスト医者が出来ること

 

ペスト医者が出来ることは限られていて、大体が瀉血である。腫大したリンパ節を切開する程度のことしか出来なかった。

 

素人目からも血を流しても治ることは無く、血によって感染が広がった気がする。
瘴気から守るためにくちばしをつけた

 

ペストの大規模な流行によって、人々は一体何が原因なのか模索し始めた。

当時はペスト菌という考えは無く、様々な原因論が浮上した。最も一般的なのは瘴気説だった。これは大地から有毒な気体が湧き上がり、人体を害しているという説。黒死病流行の直前に各地で地震が多発し、それによって生じた割れ目から瘴気が出ると信じられた。

 

 

ペスト医者の特徴的な仮面のくちばしはその瘴気から守るようになっており、原子的なガスマスクの役割をしていた。また、瘴気を打ち消すために香りの強いスパイスが詰めてあった。そして死の悪臭から鼻を守るためあった。

 

 

ペスト患者の目は禍をもたらす邪悪な目

中世ヨーロッパのペストの流行は蚤の吸血で感染する方法ではなく、空気感染をした。

 

線ペスト患者の一部には末期になると肺炎を起こす者がいる。これが肺ペストと呼ばれるものだ。肺ペストの患者は咳きやくしゃみに大量のペスト菌を排泄し、これをすってしまったものは肺ペストを発病した。よって、この効率のよい感染方法は瞬く間にヨーロッパをペストの恐怖に陥れた。

 

 

エボラ出血熱で痛感しているが、患者に近づくだけで感染し、瞬く間に死んでしまうなんて、恐怖そのものだ。感染原因を患者の視線によるものと考える人も多く、ペスト医者のマスクの目の部分の穴は赤い色つきのサングラスのような、ガラスで覆ってあった。これはその患者の邪悪な視線を睨み返すためだった。

 

また、常に持っているくすぐり杖は患者を離れたところから突いたり刺したりするのに便利だったそうだ。

 

 

ノストラダムスの偉業

ノストラダムスの大予言の詩集を上梓した有名なノストラダムスはペスト医者だった。

 

ノストラダムスの母方の家系は医術を生業としており、モンペリエ大学の医学部を卒業していた。彼は妻子をペストで失い、ペスト医者として仕事に没頭する。

 

ペストが大流行した際に市当局に雇われた様子を「化粧品とジャム論」に記述し、ペストのひどさと従来の瀉血や強壮剤や賛美歌も効き目が無かった述べる一方で、バラやショウブなどの自分で作った丸薬は効果があったと述べている。

 

そして、最も彼の偉業は土葬が一般的だった時代に、火葬の指揮を率先して行なったことだろう。火葬をすることによって、ペストの流行を食い止めたわけだ。この偉業を見ると、予言の解釈一つかもしれないと思った。

 

参考元
wikipedia
JOMF 一般財団法人 海外法人医療基金 ニュースレター

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